“特別養子縁組”というもうひとつの選択
1 年半の里親期間を経て特別養子縁組に。
同じ時間を過ごすうちに 出自も、血の繋がりも、関係ないと思えて。
毎日愛して、毎日笑って、ときには叱って……。
血の繋がりがなくたって、私たちは親子。 最近、夫の表情に似てきたのもなんだか可笑しい。
Iさんは「日々、私が育てられている」とも。
『ジネコ』で知った、 特別養子縁組制度
Ⅰさん( 49 歳)は、 10 年に同い年のご主人と結婚。長いお付き合いでしたが、周囲をやきもきさせてやっとのご入籍。
「子どもについてもまったくのノー・プランで、すでにアラフォーだったのに“不妊”が頭になく、42 歳で慌てて治療を開始。でも、うまくはいかなくて」
と、 I さんは振り返ります。
治療のためにクリニックに通い続けるなか、待合室で偶然に手にしたのが『ジネコ』でした。
「不妊治療を諦めて養子縁組を選択したご夫婦の記事があり、持ち帰って“こういうご夫婦もいるんだね”と、夫に見せたのを覚えています。その時は、“こういう制度があるんだ”という知識を得た程度でした」
被災した子供たちに 手を差し伸べたいと思い
心配をかけたくないと、不妊治療中であることをあえて伏せていた I さんですが、ある日実家で悩みを打ち明けました。
「すると祖母が“もらいっ子は?”と。昔は、親戚や知り合いから養子をもらうなど、よくあった話だとか。さらに、“子どもの存在や子育ては、人として成長の糧になる。親を経験できるものなら経験してほしい”とも言われ、心が動きました」
それからしばらくして、2011 年3月に起きた東日本大震災は、東京在住の I さんご夫婦の心も大きく揺さぶりました。
「母が石巻市出身で、実際に被災した身内の話を聞くうち に、“親御さんを亡くされたお子さんに、私たち夫婦が手を差し伸べることはできないだろうか”と思い至ったのです」
と I さん。
しかし、他県に戸籍を持つ子との養子縁組は難しいと知り、改めて都の制度に目を向けました。
不妊治療はまだ継続していましたが、もう一つの選択肢として、「もっと深く知りたい」と、 I さんご夫妻は一歩踏み込んで、都の特別養子縁組について調べ始めたのです。
子どもは“授かる”もの 養子でも、出会いは縁
調べてみると、さまざまなあっせん団体が見つかりましたが、この時すでに I さんご夫妻はともに 44 歳。
民間をはじめとしたあっせん団体は養親の上限年齢を 40歳としているところが多く、I さんご夫婦は上限年齢を 50歳未満としている都の児童相談所を急ぎ訪ねました。
その後、里親認定研修(座学2 日間、乳児院見学)の受講申し込みを済ませて受講。その上で、里親認定登録申請、調査を経て里親認定されます。
しかし、認定されてもすぐに養子を紹介してもらえるわけではありません。
I さんご夫婦に要請があったのは、2 年後。
養子縁組で好まれるのはできるだけ新生児に近い女の子、とも聞いていましたが、 I さんはあえて年齢や性別などの条件は付けないことにしていました。
「自分自身で子供を得るのも、養子という形で私たちに訪れるのもいずれも縁だと思えまして」と、 I さん。
紹介されたのは 2 歳半の男の子、 N君。超低体重児で生まれたために発達障害の心配があるとのことでしたが、万が一の可能性も伝えるのが都の方針。
それも含め、連絡があってからは夫婦で何度も話し合いを重ね、悩んで眠れない日々を過ごしました。
しかし、実際に乳児院ではしゃぎまわる N君の姿を遠巻きに目にすると不安は払拭され、「あの子と仲良くなりたいね、まずはそれから始めよう」と、 Iさんご夫妻は N君との距離を縮めます。
面会、外出、お泊まりなどの交流を重ね、やがて委託として一緒に暮らすように。
「子どもは授かるもので、選ぶものではありません。体が弱いからというのは、断る理由になりませんでした。同じ時間を共有するうちに、血の繋がりなどは関係ないと思わせてくれた」と、 I さんは言います。
「ニセモノだけど、本物」 健気な成長ぶりに感動!
特別養子縁組では、約半年間の養育期間を経て、家庭裁判所への申し立てをし、実親・ 里親双方の調査後、特別養子縁組の審判が確定されます。
縁組後の戸籍には、普通養子縁組では“養子・養女”と記載されるのとは異なり、“長男・ 次女”などと実子として記載されます。
縁組後は改名することも可能ですが、 I さんご夫婦は N君の名前をそのまま残しました。
「生みの親がこの子にくれた大切なギフトだから」と。
自分たちが本当の両親でないことも、今のうちから N君にも、周囲にも伝えています。
縁組が成立したときN君はすでに 4 歳半でしたから、「ごまかさずにいよう」と、N君の記憶を尊重しました。
“実は養子”と言ったら好奇な目で見られるかも、と思っていましたが取り越し苦労でした。
子育てのために辞めた職場も、上司や仲間が“潔い決断”と、励ましの言葉をくれました。
どうお付き合いしたものか、と神経質になっていたママ仲間にもすんなり受け入れてもらい、“先進的な選択”とまで言われることもあり、今はフォローさえしてくださいます」と I さん。
子どものいる生活は毎日が新鮮ですが、去年は突然“おもらし”をするようになり、病気を心配したことも。
ところが、“お母さんはニセモノだけど、本物のお母さん”と突然宣言して以来、ぴたりと止んだとか。
「当時、幼稚園でお兄さんやお姉さんになる子が多かったのが原因かも。“お母さん は、赤ちゃんが産めない体なの”と事実を伝えてあったので、葛藤があったのでしょう。
でも、息子なりに導き出した答え。その成長ぶりが嬉しい」と目を細める I さんは、すでに母の顔でした。
多くの人の愛で今がある それを“誇り”にして!
N君が育った乳児院には、年 4 回は親子で訪れます。
最初に出会った 2 歳半まで“親子一緒”の写真こそありませんが、担当者は成長記録をきちんとアルバムに残してくれていました。
「やがて思春期や反抗期が訪れたとき、息子は“もうここへは来たくない、出自は忘れたい”と言い出すかもしれません。そのときは彼の意志を尊重しますが、息子をこれまで大事に育ててくださったのは乳児院の職員の方々ですから、私たち夫婦は一生感謝し続けます。息子には多くの人の愛情を受けて今あることを、むしろ誇りとしてもらえるよう育てていきたい」
さらに、「運命などというドラマチックなものではなく、覚悟を持って一歩踏み出したからこそ得られた“縁”であり、まだこつこつと育んでいる過程」と、 I さんは謙虚に言います。
親子の絆をつむぐのは愛情の積み重ね。
それは実子でも、養子でも、変わりないのかもしれません。