ふたりのカタチ(3)

治療はふたりのかけがえのない経験

子宮内膜症、パニック障害、体外受精での不妊治療が難しいこと……。

でも「ここで諦めたら後悔する!」ふたりの決断に迷いはありませんでした。

kenさんの転勤にともなう、zumiさんの故郷・広島での不妊治療再開。

初めての胚盤胞移植に期待は膨らみますが、治療に終止符を打つ時が近づいていました。

信頼できる専門医のもと初の胚盤胞移植に挑戦

「ここでの治療を最後のチャンスにする」

結婚10周年を迎えた2009年は、zumiさんとkenさんにとって、夫婦の強い絆を確認できたと同時に、そう覚悟を決めた年でもありました。

予約を入れておいた体外受精専門クリニックの初診日、zumiさんは今までの治療歴を詳しくまとめて持参します。つらかった子宮内膜症の治療や、体外受精のこと。どのような薬をどれくらいの期間使っていたのかもひと目でわかるようにグラフ化してありました。その資料にひと通り目を通した後、静かに口を開いた院長先生の言葉に、zumiさんは深く感銘を受けたといいます。

「“これまで、つらい思い、大変な思いをされてきたのですね。本当に大変でした。よく頑張りましたね”と、私の目を見ておっしゃったんです。ああ、この先の治療で不安なことや疑問が生まれても、この先生なら大丈夫だと思えました」

重度の子宮内膜症のつらさを誰にも理解してもらえず、不妊治療に入るまで病院を転々としてきた彼女には、その言葉だけでもう十分だったのでしょう。

その体外受精専門クリニックでは、最初から治療方針が明確でした。今後、目指すべき点は大きく2つ。まずは受精卵を胚盤胞まで育ててから胚盤胞移植で体外受精にチャレンジすること。今までいくら培養を試みても、分割胚止まりで胚盤胞にまで到達することがなかったzumiさんの受精卵ですが、まずは受精卵を胚盤胞まで育てて、そこを突破口にしたいというのが医師の考えでした。次に、着床環境を整えるために、子宮を休ませてみてはどうかということ。zumiさんが最も心配していた卵管水腫の手術については、この2つがクリアになった時点で考えるのがよいでしょう、とのことでした。

クリニックでは、少しずつ体外受精に向けた準備をスタート。zumiさんは子宮をベストコンディションに整えるために、ホルモン剤の服用や、興味を持っていた自己注射の説明会に参加するなど、治療へのモチベーションを徐々に高めていきました。

ふたりでした治療の経験は夫婦の大切な財産に

最初から胚盤胞移植という目標を設定してスタートした二人の体外受精。子宮内膜症による卵巣や卵子の質のダメージが大きいzumiさんの場合、胚移植以前に、卵胞が育たず採卵自体が中止になることもしばしばでした。最初はHMG製剤を最大量で投与する排卵誘発法での採卵。2009年10月に3個採卵するも、残念ながらすべて受精には至りませんでした。

次に試みたのがアンタゴニスト法。zumiさんの場合、点鼻薬では最初から排卵が抑制されすぎて、最大量のHMG製剤を投与しても卵巣が反応せず、卵胞がなかなか育たないため、ある程度、卵胞が育ったところで即効性のあるセトロタイドヌ$を使う方法が選択されたのです。

この頃、久々に測定した抗ミュラー管ホルモンの値は3.1。たった1年で10ポイントも下がっていました。この数値を年齢換算式に当てはめてみると、なんと48歳の卵巣機能という結果に。zumiさんはショックを隠しきれませんでした。

卵巣は思うように反応せず、そこで今度はクロミフェン主体のマイルドな刺激に切り替えることになりました。すると、翌2010年3月の採卵で6個の受精卵が得られたのです。6個中4個に顕微授精を試みたところ、初めての胚盤胞を2個獲得することができました。その時の嬉しさをzumiさんはブログにこう記しています。

「本当に、本当に嬉しかった。今回、胚盤胞になってくれたことは、私たち夫婦にとって一つの目標であり、夢であり、ひと山越えたような達成感と充実感がありました。この事実は、その後の結果がどちらになったとしても、今後を過ごしていくうえで、すごく大きな経験となりました」

2002年には精索静脈瘤の手術を受け、苦い漢方薬を煎じて飲み、タバコも結婚当時の半分の量に減らして協力してくれていたkenさん。まさに二人で育てた胚盤胞だったといえるでしょう。

とはいえ、子宮内膜症を診てもらっていた東京の大学病院の主治医に告げられた35歳というタイムリミットは、もうとっくに過ぎていました。新鮮胚、凍結胚、2個の胚盤胞は、着床することはありませんでした。マイルドな刺激で採卵してもすべて空胞・・。そして、ついに二人は「治療が終わりに近づいている」ことを医師から告げられました。その時の心境をzumiさんは語ってくれました。

「1カ月くらいは、二人でずっと話し合っていましたね。それで、次の採卵を最後にしたほうがいいのかもしれないって。最後の自己注射は、旦那さんがそばで見ていてくれました。何でも協力してくれたけど、あの人、注射だけは見るのもダメだったのに(笑)」

子どもが欲しい気持ちはごまかしようがない

覚悟を決めて始めた治療でしたが、子どもを諦めることは、やはりつらい経験でした。しかも、治療の後半は、kenさんのお母さんの闘病、他界が重なり、kenさん自身も精神的に相当参っていたのです。

「“子どもを諦めた瞬間”というのは、正直、自分の親が亡くなった時よりきつかったかもしれません。親が子どもよりも先に死ぬのは自然の摂理だけれど、自分が子どもを持って親になるのは当たり前のことだと思っていましたから、それを諦めなければならないというのはショックでした。当時は“親として次の世代を残したい”という気持ちも強くありました。今では、それがすべてではないと思えるんだけれど、当時はそういう思いでしたね」

このままなんとなく治療を終えていくのか、それとも“これが最後”と決めて、最後の顕微授精や胚移植をするのか。ここ数年、そのことでずっと迷っていた二人。これほどの試練に、どうやってピリオドを打つことができたのでしょうか。

「乗り越えられない壁を、二人で何度も何度もよじ登っていたような気がします。“つらい”とか“残念”とか、いっぱい口に出して言いました。治療を諦めることは納得していたけれど、子どもを諦めることがこれほどヘビーだとは、正直思っていませんでした。

でも、涙がこぼれてくるなら泣けばいい、イライラするならイライラすればいい。今そうしておかないと、多分、気持ちをいつまでも引きずってしまう、そう思ったんです」

zumiさんの気持ちを受け止めるようにkenさんが頷きます。その静かな空気が、二人で乗り越えてきたものの大きさを感じさせました。(つづく)

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