不育治療はいよいよ最終段階へ――
不安だった注射も、夫と二人三脚で。
一緒に乗り越えてきた過去があるから 今の幸せをよりいっそう深く感じます。
妊娠はすぐできるものの、 お腹の中で育っていかない「不育症」。
マサキさん、カヨさんご夫婦の 物語の後編をお届けします。
染色体検査を受け 治療を再スタート
結婚後、すぐに子どもが欲しかったカヨさん、マサキさんご夫婦。
すぐに妊娠するも、立て続けに2回稽留流産し、不育症専門病院で第 12 因子欠乏症と診断されました。
次の双子の妊娠ではアスピリンを服用し、赤ちゃんの心拍まで確認できましたが、12 週で心拍が停止。
「双子でなければ、次は大丈夫だろう」との医師の言葉に、前向きに次の妊娠に向かおうとします。
その前に唯一、二人がまだしていなかった染色体検査を受けることに。
「もしも二人の染色体が合わなければ、気持ちを切り替えて、二人で楽しく生きていこう」と話し合って決めました。
検査結果の日。
マサキさんは治療をしてきたなかで、その時のことが一番印象に残っているといいます。
「その日、午前中は仕事を休み、車で一緒に病院に行きました。
二人とも“ダメと言われたらどうしよう”と考えていたと思いますが、お互い気にしないようにしていて、会話もあまりありませんでした。
それまでで一番緊張したかもしれないですね」(マサキさん)
幸い、結果は異常なし。
二人の緊張が一気に解けました。
これで前に進める、子どもを持てる可能 性がある――。
そんな安堵感のなか、次の妊娠へと進みました。
ほどなく4回目の妊娠に成功。今度は単胎であることが確認できました。
アスピリンを服用し、心拍も確認。
しかし、またしても、12 週の健診で心拍が止まっていたのです。
「双子じゃないのに、ダメだった……」。
カヨさんはこの時、自分がどんな気持ちだったのか、思い出せないといいます。
ただ涙がとめどなくあふれました。
職場にいたマサキさんは携帯を机に置いて、カヨさんからの健診の報告を待っていました。
9時を過ぎても 10 時を過ぎても連絡がない。
そわそわしていたところに、メールで結果が報告されました。
自分もつらい、カヨさんにもかける言葉が見つからない。
それでも泣いているカヨさんに寄り添うように電話をかけました。
一人にしておくことはできないと思っていました。
その後、専門病院の医師に流産の報告をすると、「この血液検査の状態でアスピリンを飲んでもダメというのは、過去に症例がない」と言われました。
「もうダメなのだろうか。
子どもは諦めないといけないのだろうか」そう思い始めた二人に、
「まだ可能性はある。諦めない限り、方法はあるから」と医師は言いました。
その方法とは、ヘパリン注射を打つ治療でした。
最後の手段である 自己注射の治療を決意
カヨさんは注射が大の苦手。
それに、第 12 因子欠乏症に対するヘパリン注射は保険がきかないため、経済的な負担も大きくなります。
しかし、二人はこの治療にかけてみることを決意。
ご両親も経済的に援助してくれることになりました。
自己注射のレクチャーを受けながら、看護師さんに「これでコロッと良くなって、今までのことは何だったんだろうって思う方がいっぱいいるんですよ」という話を聞いて、それを信じようと思いつつも、不安は募っていました。
カヨさんがお母様に5度目の妊娠の報告の電話をした時のこと。
「注射してもダメだったらごめんなさいということや、お金がかかること、注射が怖いことなど、話していたら涙がボロボロ出てきてしまって。
母親も泣きながら聞いてくれました」(カヨさん)
そして、ヘパリンの自己注射をする日々が始まりました。
注射は1日2回、 12 時間おきにします。
前後1時間以上はずれてはいけないことになっていました。
仕事も続けていたので、出勤時間も考えて、朝と夜の 10 時半に行うことに。
上司や同僚には、事情を話しておきました。
「主人がすごく協力してくれて、10 時半近くになると“そろそろ注射の時間だね”といつもメールをくれました。
夜、家で打つと『お疲れさま、ありがとう』と言ってくれたり。
一緒に治療してくれているという感じがしました。
私の責任なのにそう言ってくれて、本当にありがたかったです」(カヨさん)
職場の人たちも理解があり、優しくしてくれたそう。
注射の時間になると、会議中でも「時間だからいいよ」と言ってくださるので、トイレに行って注射させてもらっていました。
そして、ついに今まで越えられなかった 12 週の壁を越えることができたのです。
「大きな進歩だと思いました。
僕は初めて、友人や親戚に妊娠を報告しました」(マサキさん)
「でも、次の健診で心拍が止まっていたらどうしようという心配はずっとありました」(カヨさん)
順調に育ち 待望の出産へ
その後、自宅の引っ越しという大きなイベントもマサキさん主導で無事に終え、カヨさんは安定期に。
「胎動が感じられるようになってからも、動かない時間があるととても不安になりました。
あとは、注射の影響で障害があったらどうしようとか、心配はつきませんでした」(カヨさん)
ヘパリンの受け取りや注射針の廃棄、副作用が出ていないかを調べる検査を受けるための通院は大変でしたが、注射をやめる勇気がなく、妊娠 35 週まで打ち続けました。
これ以上打つと分娩時に大量出血を起こす危険があるというギリギリの週数でした。
そして2013年1月、無事に女の子が誕生。感動の涙を最初に流したのは、出産に立ち会っていたマサキさんでした。
陣痛の時もカヨさんの隣で一緒に過ごし、出産に立ち会い、感動と安堵感で自然に涙が出てきたそう。
「生まれた瞬間に、これまでのことはどこかに飛んでいきました。
この子をしっかり育てなきゃ、とスイッチが切り替わっていましたね」(マサキさん)
「やっとお腹の中で育てて、 産むことができた。
健診の時のエコー写真で、毎回、赤ちゃんがどんどんはっきりと見えてくるのが感動でした。
出産してこの腕に抱っこした時は、もう、頭が真っ白な感じでした」(カヨさん)
二人の愛情をいっぱい受けて、娘さんはすくすくと育ち、現在は1歳になりました。これまでの苦労があるから、今の幸せがある――。
マサキさん、カヨさんは、目の前の幸せをかみしめながら、生まれてこられなかった5人の子どもたちのことを絶対に忘れないようにしようと話しています。
また、育児の合間をぬって、不育症の人たちを支援する活動を続けています。
「不育症は、まだまだ世間ではあまり知られていません。
不妊治療に補助金を出している企業や自治体でも、不育治療に対して出しているところは少ないと思います。
しかし実際には、不妊治療と同じくらい、不育治療にも負担がかかります。
少しでも多くの人に不育症を知ってもらうことで、補助や支援が広がれば、子どもを諦めなくてすむ人が増えると思うんです。
自分たちがしてきた経験を伝えていくことで、何かが変わっていってくれればいいなと思っています」(マサキさん)