生殖医療の未来のために 私たちができることとは?
日本産科婦人科学会・前理事長の吉村泰典先生、セントマザー産婦人科医院の田中温先生、 セント・ルカ産婦人科の宇津宮隆史先生に、生殖医療の現状と今後について 大変興味深いお話をしていただいた前号の鼎談。今回は引き続き、 日本の生殖補助医療をより発展させていくための課題についてお伺いします。
日本におけるARTの課題は 正確な情報を得ること
日本の不妊治療の水準は世界でも高いレベルに達していますが、まだまだ課題も残されています。
その1つは、これまでART(高度生殖医療)に関する正確な情報が得られてこなかったということ。
ARTで生まれた子どもの成育の実態については、欧米では大規模な調査が行われていますが、我が国においては生後発育に関する学術調査はほとんど実施されていないのが現状です。
ARTで出生した子どもの健康状態を知り、長期予後を調査するために、日本産科婦人科学会では、2007年より子どもを含めたオンライン登録をスタート。
2010年からは、JISART(日本生殖補助医療標準化機関)や大学機関にも協力を仰ぎ、国内での本格的な追跡調査が始まりました。
今回は、ARTにおける調査の実態や調査を行う意義について、日本産科婦人科学会・前理事長の吉村泰典先生、セントマザー産婦人科医院の田中温先生、セント・ルカ産婦人科の宇津宮隆史先生にお話を伺いました。
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日本産科婦人科学会では2007年からオンライン登録を始められましたが、このシステムを取り入れて、医療側に変化はありましたか?
田中 特定不妊治療費助成の申請と組み合わせて、個別の調査票を患者さんに提出していただいていますが、医療側はもちろん、患者さんにとってもこれは非常に利点があるシステムだと感じています。
データを集めることで、まず、患者さん自身がARTの安全性を確認できるということ。
将来、子どもにARTによる出生だということを伝える際に、国レベルのきちんとした追跡データがあれば自信を持って伝えられますよね。
そうして生まれた子どもがまたARTをする場合も、「行っても大丈夫」という安心材料になります。
医師にとっても、追跡調査データがあれば患者さんに説明しやすくなり、スムーズに治療を受けていただくことができます。
吉村 田中先生がおっしゃったように、個別の調査票と特定不妊治療費助成を組み合わせた画期的な調査でしたが、それは生まれてから1カ月までという短い期間のものなのです。
1カ月までは調査をしやすいかもしれませんが、その後の長期のフォロー、5歳、 10 歳、 15 歳となってくると、これは非常に難しい調査になってきます。
宇津宮 当院のデータでは、出生時と生まれてから1年後の調査は、だいたい9割くらいの割合で返事が戻ってきますね。
吉村 宇津宮先生のところでは、ずいぶん前から独自に調査をされていたのですよね?
宇津宮 1992年から追跡データを取っています。
吉村先生が危惧されているように、確かにお子さんが大きくなるにつれて、データは取りにくくなっています。
3歳だと4割、5歳になると1割程度の戻りでしょうか。
引越しなどやむを得ない理由もありますが、やはり「出生後は病院とはあまりコンタクトを取りたくない」という気持ちが患者さんの心の中にあるようですね。
そういった患者さんの意識は、世間におけるARTへの認識不足や、比較的新しい治療ということで、安全性における不安から生まれているようにも思いますが……。
吉村 新しい治療においてはしばしば負の面が強調されることがありますが、ARTでもマイナス面に関するデータはあります。
このようなデータは世間に出やすいですし、それがマスコミなどによりセンセーショナルな形で伝えられてしまいがちです。
それとは逆に、「安全ですよ」というデータを出すのは非常に難しいことです。
不妊症にはさまざまな要因があり、個々で条件も異なってくるので、膨大な量のデータを取って比較していかなければ、安全性の正確な分析はできませんから。
宇津宮 ARTに対する認識不足は世間一般の方々だけではなく、医療従事者においても見られます。
私は毎年、ほかの科の先生が出席される周産期研究会のような場で、「ARTで生まれたお子さんは、通常の形で生まれたお子さんより異常が少ないんですよ」と発表しています。
すると、新生児の小児科の先生は驚いて、「少ないんですか?私は多いと思っていました」とおっしゃるんですよ。
「いい精子を集めて、いい卵子ができるようにして、いい環境を整えて妊娠に導くのですから」と答えましたが。
このように、すぐ隣の分野の先生ですら正確な情報を知らないのです。
一般の方や患者さんが誤解してしまうのも仕方がないことなのかもしれません。
吉村 でも、今は少しずつ変わってきて、認知もされつつあるのではないでしょうか。
それは、ARTが日本でスタートしてからこれまでの間、頑張ってこられた医師や医療関係者の地道な努力があったからこそです。
しかし、ARTはやはり人為的な手を加えているわけですから、これに何か起こるということについては我々が責任を持つような姿勢をとっていかなければいけません。
今のところ実施してはいけないようなリスクは報告されていませんが、常にそのような気持ちで行っていくことが大切だと思います。
そのために、生まれた子どもがどう育っていくかを見ていくこと、つまり追跡調査が必要になってくるんです。
田中 お子さんの未来、そして生殖補助医療の未来を考えれば、追跡調査に協力するのは施設や医師の義務だと思います。
昨年からJISARTを中心に 長期間の追跡調査がスタート
田中先生や宇津宮先生も所属されているJISARTにも協力を要請して、昨年から調査が始まったようですね。
吉村 JISARTには 25 の施設が所属していますが、この機関だけで国内の体外受精の3分の1くらいが行われています。
オンライン登録だけではやはり足りません。
そこで、多くの生殖補助医療を手掛けており、調査の重要性を認識されているJISARTという機関なら、きちんとした長期的な追跡データが取れると考えて、JISARTにお願いしました。
スタートしてまだ2年目ですが、全体の2~3割でもいいので、15 歳くらいまでは追跡できるシステムを作っていきたいと思っています。
宇津宮 当院は地方にあるので特にそうかもしれませんが、調査をしようとしても患者さんの抵抗感が強いです。
患者さんに調査の意義をご理解いただき、いかに協力してもらえるかがポイントになってくると思います。
田中 当院でもアンケート用紙を患者さんに渡すと、たくさん項目があって記入するのが大変なのか、3割くらいしか回答が戻ってきません。
しかし、一度電話でお願いすると、ほとんどの方が返事をしてくれるんです。
おそらく「これは必要性のある情報なのだ」という意識を持っている人が少ないのでしょう。
ですから、最後の一押しをするなど、施設側の努力や工夫も必要になってきますね。
吉村 そのような施設や患者さんのご協力で長期間の追跡調査システムが完成すれば、世間一般の方々の認識はもちろん、治療においても、ARTが今までの概念とはまったく違ったもの、よりよいものに変わっていく可能性があると信じています。