不妊治療に賭ける想い
不妊治療に携わることになった理由や それにかける想いなどをお聞きし、 ドクターの歴史と情熱を紐解きます。
セント・ルカ産婦人科 宇津宮隆史先生
死を意識する大怪我で、 初めて気付かされた 自分に残された宿題
不妊治療を続けることは 予想していなかった
はじめに、生殖医療を志すことになったきっかけを教えてください。
宇津宮先生 最初は不妊治療に従事するつもりではかったんです。
1973年に熊本大学医学部を卒業してすぐ、別府の九州大学温泉治療研究所に入局したのですが、九州大学から来られていた助教授の方が不妊治療をしていて、たまたまその不妊グループに割り当てられたんです。
その頃の不妊治療というのは、ものすごく少数派でした。
はじめは5人いた不妊グループのメンバーも徐々にやめていってしまい、最後は私一人でやることになったのですが、ずっと続けていこうとは思っていませんでした
その理由は何だったのでしょうか?
宇津宮先生 ホルモンと内分泌に対する苦手意識などもありますが、一番大きな理由は、〝不妊治療〟というものに対して、おおっぴらにしにくい感覚を持たれることが多いということでした。
治療で赤ちゃんを授かっても、〝不妊だった〟ということ自体がトラウマになっている人もいます。
子どもができたらもう不妊じゃないと言ってもだめなんですよね。
ポジティブに、一生懸命に不妊治療をしても、その結果に対して目を背けられがちになってしまうのは、感情としてしかたのないことかもしれませんが、医師としては残念です。
それで、教授に〝がん をやりたいです〟と言ったのですが、〝だめだ、不妊をやりなさい〟と言われました。
当時は、携わる人間がいなかったからなのでしょう
トライアスロン挑戦で 大怪我を経験して
そんな宇津宮先生の転機となったのは?
宇津宮先生 〝前人未到〟という言葉が好きで、 30 歳頃からトライアスロンに挑戦して、大分県で初めての完走を成し遂げたんです。
その時は県内から3人参加していて、全員がゴールイン。
その彼らと地元でトライアスロンの大会を主催することになり、私は主催者兼競技者として、その日を迎えました。
最初は順調に進んでいましたが、自転車の競技途中、時速 50 ㎞のスピードで山を下っていたらカーブで大転倒して、首の骨が割れてしまったんです。
骨が縦半分にきれいに割れることで衝撃のエネルギーが吸収され、脊髄は傷めずに済みましたが、首に負荷がかからないようにベッドの上で仰向けのまま固定されて、そのまま4カ月、入院生活が続きました
本当に大変な大怪我だったんですね。
宇津宮先生 まさか自分が、と思いましたね。
話は大学時代に戻りますが、大学のYMCA寮では教会に行く義務があり、当時は聖書を読んだりもしました。
教義上では、キリストは〝人間の罪を背負って、代わりに死んでくださる〟とありますが、当時は意味がよく理解できなかった。
でも、入院生活を送っているうちに〝助かった自分には、何か残された宿題があるのだ〟と思うようになったんです
“生殖医療こそ 自分の使命”と気付いて
その宿題が生殖医療だったのですね。
宇津宮先生 それは何か。
大分県には不妊治療の専門医がいない。
だから不妊治療こそ、自分の役割、残された宿題だったのだと気付かされたのです。
トライアスロンを達成した幸福感から、一歩間違えれば死んでいたかもしれない大怪我でどん底まで落とされたことが逆に、私にとって不妊治療を続けていくうえでの大きな転機となったのです
「不妊治療は残された宿題」との思いが生まれて、一番変化したことは何ですか?
宇津宮先生 大きく変化したことは、仕事そのものに対する意識。
今夏、大分駅南口に移転しますが、新施設は〝世界レベルの不妊治療技術〟を提供できる場所にしたいし、単なる個人クリニックではなく公共施設と同じような位置づけにしたいと考えています。
こういうクリニックは絶対に必要だと思います
ますますのご活躍が期待されますね。最後に、今後の生殖医療のあり方について、先生の考えをお聞かせください。
宇津宮先生 生殖医療の技術は短期間で飛躍的に発展しました。
だからこそ、何のために治療をしているのかという原点を決して忘れてはなりません。
原点は、生まれてくる子どもの幸せ、将来にまで責任を持つ、ということ。
どんな経緯であれ、生まれてくるのは我々と同じ〝人間〟です。
彼らが〝生まれてきてよかった〟と思える環境をいかに整えることができるのか。
それが、技術の進歩以上に大切であり、今後の生殖医療の課題だと私は考えます