不妊治療に携わることになった理由や それにかける想いなどをお聞きし、 ドクターの歴史と情熱を紐解きます。
田村秀子婦人科医院、田村秀子先生
精神面をサポートして 女性の気持ちに寄り添う 「共感」の治療を
女性の医師として 女性の力になりたいと思った
先生のご実家は広島で十代続く医者の家系だそうですね。先生が医師を志したのも、その影響が大きかったのですか?
田村先生 はい、伯父も伯母も皆医師で、祖父と父は産婦人科医でした。
ですから二人姉妹の長女だった私は、何となく物心がついた時から『医者にならんといかんかなー?』くらいには考
えていたと思います。
私は太宰治が大好きな文学少女で、考古学者や建築家になりたいというほのかな憧れもありましたが、結局、最も身近な職業だった医師の道を志していましたね。
だからなぜ医師になったのかと聞かれても、『だって、なるって思ってたんだもん』としか言えません。
もっとも父からは、産婦人科だけはやめておけと言われましたが(笑)
それでも産婦人科医を志したのは?
田村先生 医学部でいろいろ学ぶうちに、手先の器用さが求められ、外科と内科の両方の要素が必要になる産婦人科医の仕事は、医師としてオールラウンドだと、その魅力に気付いたからです。
そして、不妊治療の分野に進むことになった理由。
生理痛のつらさとか、経血の量の多い・少ないということは、正直、女の自分のほうが男性の先生よりよくわかると思っていました。
それに私はもともとA型人間で、悩むといつまでも尾を引いてしまうタイプ!
それなら、文学少女から医者を目指した私の特質を生かし、心理的な面でもサポートしてあげれば、不妊に悩む女性の力になれるのではないかと考えるようになったのです
そして不妊治療の専門医を目指すことになるのですね!
田村先生 1985年、母校の京都府立医科大学附属病院でも本格的な体外受精がスタートしました。
母校の大学院に進んだ理由は、研究者になりたかったからではありません。
このまま外へ出ずに体外受精の立ち上げに携わり、実験ではなく臨床の現場を見たかったから。
研修医になりたての頃は、まだ点滴も上手にできないうちから、不妊外来の指導医のそばにピタッとくっついて離れませんでした。
その頃はまだ医師が培養まで担当していましたから、5年間ほどは上司が採卵した卵子を私が培養していましたね
子どもがいるからこそ その素晴らしさを共有したい
先生は仕事をしながら、3人のお子さんの出産や子育ても経験されています。それはやはり治療に役立っていますか?
田村先生 そうですね。
話は前後しますが、私は大学を卒業した後、大学院時代に知り合った主人と結婚、 33 歳で長女を出産しました。
結婚前は月に7日しか下宿にも帰れないような生活をずっと続けていましたから、出産も『今ここでしか産めない』と思い、排卵誘発をして計算通りに事を運びました。
出産の2週間前まで仕事をして、産んで 20 日目にはもう出勤していたと思います。
長女に続く3年後の双子出産の際は、自分で排卵誘発の注射を打ちながら、京都第一赤十字病院に勤務。
子宮外妊娠や卵巣過剰刺激症候群を経験しましたが、妊娠 13 週目の破水も乗り越え、何とか無事に出産することがで
きました。
保育所に通う長女を職場に連れていっていた時期もあります。
そんな大変な思いをして育てた我が子ですから、私は子どもを持つことは"世代をつなぐ"ことなのだと本当によくわかります。
人間とはこういうものなのかと、子どもから教えられることも多い。
子どもがいない人に『いないのもあなたの人生よ』と言うのは簡単だけれど、私は少しでも多くの人に子どもがいる生活の素晴らしさ、感動を味わってほしい。
そのパッションを仕事の原動力にしています。
ぴっかぴかの美しい受精卵を見るのは、単純に嬉しいものよ。
いつも『1つ改善したことを喜ぼう!』と言っています。
患者さんと小さな喜びを共有しながら一歩ずつ進んでいくことが、私自身の活力にもなっている。
この仕事は、患者さんの気持ちにどれだけ共感してあげられるかがすべてだと私は思います
先生の意志を受け継いで、お子さんたちは皆さん医師を目指しているそうですね。
田村先生 23 歳の長女は東京の医学部で勉強中ですが、高校1年生の時から、私の跡を継ぐと言って私のそばで外来を見ていました。
彼女は私のパッションを見て育っているから強いです。
双子たちにも一度も医師になれとは言ったことはありませんが、医学部に行きました。
学校の懇談会にも行ったことがなく、先生の名前も知らない、決していい母親ではなかった。
間違いなく犠牲にしてきたのは子どもたちなのですが、こんな私の後ろ姿を見て、よくぞここまで育ってくれました。
今はとても感謝しています