情熱のカルテ 田中温先生

情熱のカルテ~不妊治療にかける想い

不妊治療に携わることになった理由や それにかける想いなどをお聞きし、 ドクターの歴史と情熱を紐解きます。

セントマザー産婦人科医院 田中温先生

不可能を可能にしたい…… その思いで歩んできた 生殖補助医療の道

日本における不妊治療を 牽引し続けてきた

まずはじめに、先生が生殖補助医療を志
したきっかけは何だったのでしょうか。

私が順天堂大学の産婦人科に入局した1976年頃、当時の不妊治療というのは、ほとんど妊娠に辿り着かなかったんです。

体外受精もなく、一番進んだ治療法であった人工授精でも1年に数人しか妊娠できなかった。

妊娠できなければ子どもを諦める、または離縁せざるを得ないという時代。

この現状を何とかしたいという思いが、生殖補助医療を志すきっかけとなりました。

とはいえ、当時の大学の医局は不妊治療や研究ができる環境ではなく、日本全体から見ても、不妊治療がほとんど研究されていないという背景がありました

 先生にとっての不妊治療が大きく転換したのはいつ頃ですか?

世界的には、1978年、イギリスの生理学者ロバート・G・エドワーズ博士が、世界で初めての体外受精児出産を成功させました。

もう本当に、ひっくり返りそうになるくらいの青天の霹靂でした。

これがすべての始まりでしたね。

私にとって大きな転機となったのは、1983年。

産婦人科医と臨床検査科医長を兼任し、研究者としても不妊に携わることができる越谷市立病院に赴任したことです。

昼は産婦人科、夜は病理を研究する、という日々。

臨床検査科のスタッフに協力してもらいながら不妊症の原因の内容について、臨床データを調べていきました。

話はさかのぼりますが、1年間、病理学を学ぶために大学院に行ったんです。

その時、マウスで体外受精を試みていた畜産学の研究者に、その研究を見せてもらいました。

私のなかで、体外受精をやりたいという思いがますます強くなり、それができる環境というのが越谷でした。

 越谷市立病院での不妊治療・研究の成果などは、具体的には?

越谷に行って、まず最初に、不妊の患者さんに対して卵管造影検査を行いました。

その結果、約9割の患者さんが片方の卵管は通っているということがわかりました。

本来、体外受精の適用は両側の卵管が通っていない人です。

でも、両方とも通っていない人はほとんどいない。

だったら通っているほうの卵管を使えばいい、と考えたのです。

当時、体外受精での妊娠率は1~2%程度。

それでは治療として成り立ちません。

そもそも卵子と精子は卵管で出合い、受精するものです。

その発想から、マウスの卵管に卵子と精子を受精させずに戻す、という実験を始めました。

そうしたら、マウスが個体あたり100%の確率で、皆妊娠したのです。

これらの研究から、卵管内精子卵子注入法・GIFT法が生まれ、この治療法で、国内初の不妊症患者の妊娠・出産に成功したのは1985年のことでした。

さらに、新GIFT法、新ZIFT法などができ、妊娠率は 30 ~40 %と飛躍的に伸び、現在の不妊症の福音となる治療法として確立されました。

紆余曲折を経て 新しい治療法を確立

常に第一線を歩み続けてきた先生。そのご苦労は並々ならぬものだと思いますが。

初めてのことをやろうとした場合、必ず賛否両論があり、しかも否定的な見方のほうが強いものです。

GIFT法を発表する少し前、我々のチームに医師資格のない畜産学研究者がいるということが問題視されました。

彼は唯一、卵を見極められる、今で言う胚培養士的な存在ですが、〝非医師が医療行為をしている、人体実験している〟と、批判は相当なものでした。

ですが、それぞれの専門性を集結させたからこそ、不妊治療の歴史が大きく変わったのです。

その結果よりも〝医師でない〟ことのほうが、当時の日本では問題だったのですね。

 先生の不妊治療への情熱はどこからくるのでしょうか。また、この先の展望は?

30 年近く生殖補助医療に携わってきたこの間、不妊で悩む患者さんから2万人を超える赤ちゃんが誕生しました。

たとえるなら、全盲の人が見えるようになる、足に麻痺のある人が歩けるようになる、不妊治療というのは、それと同じだけの喜びがある、と私は思うんです。

だからこそ一生懸命になれる。

不妊治療に取り組んでいる先生方は皆、この仕事に情熱をかけています。

それぞれの考えがあるし、情熱の有り様も多少違いますが、私の情熱の方向は〝常に新しい技術と治療を提案し続けたい〟という思い。

生涯医師として、研究者として、自ら成し遂げていきたいですね。

田中 温 先生 順天堂大学医学部卒業。越谷市立病院産 科医長時代、診療後ならという条件付きで 不妊治療の研究を許される。度重なる研究 と実験は毎日深夜にまで及び、1985 年、 ついに日本初のギフト法による男児が誕 生。1990 年、セントマザー産婦人科医院 開院。日本受精着床学会副理事長。2009 年度よりJISARTの理事長に就任。

 

 

 

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