重度の子宮内膜症やパニック障害を乗り越えて、専門クリニックでの体外受精へ。
しかし昨年、子どもを望んだzumiさんとkenさんは、10年間の治療生活に終止符を打ちました。
今の気持ち、つらかった治療、悲しい決断、そして、これからのこと……。
「子どもは諦める」、考え抜いて選択した答えを胸に今、歩みはじめたばかりのふたりのストーリーです。
誰にも理解されなかった子宮内膜症のつらさ
昨年の10月に、10年間の不妊治療に終止符を打ったばかりのzumiさんとkenさんご夫婦。
「子どもが欲しい気持ちはごまかしようがないけれど、今は正直、『こんなにラクだったんだ、日々の生活!』という感じです」
ちょっぴり悔しそうに、でもどこか晴れ晴れと、zumiさんは今のありのままの思いを口にしました。隣でkenさんも深くうなずいています。
「しんどい仕事もルーティンワークになるとつらくなくなりますよね。不妊治療って、病院に行くことがデイリーになる。毎日注射を打ったり、生活のいろいろなことに制約があるでしょ。こんなにすごいストレスがかかっていたんだって、彼女自身も治療をやめてみて初めて気付いたんだと思います」
zumiさんにとって、当初、不妊治療とはすなわち子宮内膜症との闘いでした。
「治療で一番つらかったのは、実は体外受精に進む前。子宮内膜症でキツかった時なんです」
10代の頃からひどい生理痛に悩まされてきたzumiさん。長年「生理痛はガマンするもの」と自分に言い聞かせ、婦人科の診察を受けたことはありませんでした。しかし月経時に自宅で倒れたのをご両親が心配し、夜間救急外来へ。痛みをこらえながら病院で不安な夜を明かし、翌日、婦人科外来で初めて子宮内膜症と臨床診断されます。
子どもの頃から「赤ちゃんのママになる」ことをずっと夢見てきたzumiさんにとって、「妊娠しにくい」と診断されたことは大きなショックでした。しかもこの時はちょうど結納の直前。子どもが大好きなkenさんにもそのことを話さないわけにはいきません。ところが、話を聞いたkenさんは問題にもしませんでした。かえって「二人でいろいろ調べながら前向きに治療していこう」と励ましてくれたといいます。こうして、結婚に向けて二人の絆はさらに強く結ばれることになりました。
信頼できる医師と出会い腹腔鏡下手術を
1999年、zumiさん26歳、kenさん28歳の時に結婚。しばらく落ち着いていましたが、翌年、腹痛・タール便・排尿痛、排便痛などの症状が悪化し、とうとうzumiさんは救急車で搬送される事態となります。
「この時、病院で内科の女性の医師に子宮内膜症だと告げたら、『赤ちゃんができたら治るのにねぇ』なんて、いい加減かつ心ないことを言われ……。落ち込みました」
その後も国立病院、総合病院の産婦人科を転々としますが、信頼できる医師にはまったくめぐり合えません。最初は「先生を信頼して治療すれば必ずよくなる」と信じていたzumiさんも焦りはじめます。
こうなったら自分で勉強して子宮内膜症に詳しい医師と出会うしかない!子宮内膜症の治療を安心して任せられる病院はどこ?そんな時に訪れた転機が、kenさんの東京への転勤でした。この頃、zumiさんの弟も都内で大学生活を送っていたことから、たまたま「生協にこんなのあったよ」と見せてくれた大学病院のパンフレットが目にとまります。藁(わら)にもすがる思いで、紹介者もないままにその大学病院に足を運びました。
「そこで初めて、子宮内膜症のつらさをわかってくれる先生と出合うことができたんです」
内診、超音波、MRI検査の結果、診断は「腸管子宮内膜症および内膜症性嚢胞」。激しい痛みの原因となる重度の癒着があり、腸管内にも腫瘍(内膜)が見つかったzumiさんは、2度にわたる腹腔鏡下手術(ラパロ)が必要でした。腸管ごと切除しなければならず、手術には外科のドクターにも加わってもらいました。
「どの患者さんに対してもそうだったと思うのですが、私の担当医はビックリするくらい朗らかで、謙虚で、しっかり“人”を見て診察される方でした。手術の前後も、忙しいのに毎日様子を見に来てくださって。その先生に出合えなかったら、私はいまだにあてもなく病院巡りを続け、体外受精をしていなかったかもしれません」
新たな試練…パニック障害
1度目の手術が無事に終わった2003年の春、大好きだったお父さんの他界というつらい経験がzumiさんを襲います。陽気で楽しいことが大好きだった父親との悲しい別れ。その後も月経痛や過呼吸の発作で入退院を繰り返すうち、zumiさんはある心と体の変調に気付きます。
「電車に乗るのがコワイ」
当時、中央線の満員電車で通勤していたzumiさん。次第に、会社までたどり着くのにも、一駅ずつ降りなければならないような状態に。加えてひどい過呼吸や体の震え。「外出中にまたお腹が痛くなったらどうしよう」という不安も常に頭を離れません。そのうち乗り物はいっさいダメになり、一人で出歩くことが強烈に不安になっていきます。
「もっと早く気付けばよかったね」と、kenさんがポツリ。
当時はそれが何なのか、まったく理解できませんでした。たまたま見ていたテレビ番組で取り上げていた、パニック障害の内容を見て、症状がほとんど当てはまったことから、初めてパニック障害だということに気付いたといいます。
そうして、いつしかzumiさんはkenさんに『どうして子どもができないの?』と八つ当たりしたり、『今日は会社に行かないで!』と無理を言ったりするように。まるで夜泣きの子どもをあやすように、kenさんがzumiさんを隣に乗せ、一晩中、湾岸線をドライブしたこともあったそうです。zumiさんがつらいのはもちろんですが、kenさんの心もどんどん暗くしぼんでいきました。
「子宮内膜症も、子どもができないことも、パニック障害も、『なんでだろう?』とわかるまでがしんどかったですね」
今思えば、お互いどこにも出口が見えず、精神的にも肉体的にもつらい時期だったのでしょう。この時期、二人の救いだったのは、zumiさんの姉夫婦の子どもである、甥っ子の存在でした。一緒に行事に参加したり旅行したりすることで、二人の心は癒されました。(つづく)